忘却とPKMとレムナント

概要

ここ2年ほど、Obsidianというツールを使って個人的な知的活動にPKM(Personal Knowledge Management)を取り入れている。本稿では、ごく個人的な内省として、PKMを取り入れたことで起きた思考の変化について考えてみる。

忘却

昔から忘れっぽいという自覚があった。

それを実感する典型的なシーンは、映画やアニメや漫画などのコンテンツの内容を思い出せない時である。多少なりともオタク的な自意識――何かを好きでいることが自身の在り方に直結している――を持っているにもかかわらず、肝心の好きなものの内容を簡単に忘れてしまう。また、幼年期や少年期の記憶が薄いという疑いもあった。周囲の人が思い出として語ることを、自分に当てはめて同等の詳しさで語れる自信がない。かつて自分が大切にしていた価値観を平気で裏切っていたとしても不思議に思わない。

忘れっぽさは、計測不可能という点で厄介だ。他人と比べてどれくらい忘れっぽいかを知る術はない。本当に忘れっぽいのかも分からない。一方で、忘れっぽいという自己認識の害はたしかにあって、漠然とした無力感や、自己肯定感の低さに繋がっていた。

悲しいことに、孤独が忘れっぽさを助長するという面もあると思う。他人に対して語る機会は、記憶を強化・純化するのに最適であろう。一方で機会に恵まれなかった記憶は、現実と非現実、主観と客観が混ざり合って、やがて蒸発し、風化していく。写真・日記といった記録や内省によって記憶を補強することもできるが、平均的な孤独な人にそういったモチベーションがあるだろうか。

PKM

PKMを始めたきっかけは、忘れっぽさへの問題意識とは特に無関係であった。単に散らかったメモを整理しようと思い立ったのだ。以前から紙やデジタルのメモツールを多少は使っており、紙のノート、EvernoteDropboxGoogleドライブ、Notionなどにメモが散在していた。

PKMとは語義通り「個人的な Personal」「知識の Knowledge」「管理 Management」を形式的な手法で行う営みを指す。その概念に名前があることすらも、はっきりと認識していなかった。しかしそれを認識した後では、「どのようなPKM戦略を採用するか」という問題が立ち現れた。

PKM戦略とは個人的に使っている言葉で、一般的なものではない。「どんな知識をどんな方法で管理するか」という決め事の総体を指す。 デジタルツールを使ったPKMは、自分専用のWikiを作るようなものだ。情報の管理単位は、階層化しやすく、相互にリンクしやすい形がよい。そういう一般的な法則はありつつも、自分専用なのでいくらでも主観が混ざってよく、どんな情報を管理するかも自分で決めてよい。その過程で「自分が何を覚えておきたいのか」という価値観が浮き彫りになる。 PKM戦略は究極的には価値観の問題なので、誰かに正解を教わることはできない。

僕のPKMのやり方は模索中であり、ここでノウハウを解説できるようなものではないが、管理することにしてよかったと思っている知識の種類を例として挙げてみる。以下に挙げる情報の種類は、Obsidianの保管庫(Vault)のトップレベルのフォルダとして表れている。(※フォルダ名の先頭の数字は単にソート用であり、あまり意味はない)

Obsidianの保管庫(Vault)の外観

  • 09_PKM
    • 「PKM戦略」の中身、つまり「どんな知識をどんな方法で管理するか」の方針を記述している
    • これを記述することに自覚的であることが重要だと考えている
    • たとえば「映画を観た後にQuickAddプラグインの"QuickMovie"コマンドでノートを作成し、鑑賞日・鑑賞手段・感想メモを記録する。同一作品の複数回鑑賞は同じノートに鑑賞日・鑑賞手段・感想メモを追記する」といったルールを決めている
  • 10_Source
    • 情報ソース(映画・アニメ・本)の鑑賞記録をつけている
    • 最低限、観た/読んだという事実を記録できればよいと思っている
    • 途中で観る・読むのをやめたことも正直に記録する
    • 本は引用や感想も記述しており、簡易読書ノートになっている
    • 本は「未読」「読書中」「既読」を分けて管理している。「未読」は、その本の存在を知った時点で少しでも興味があれば記録しておく
    • 漫画は今のところ記録していない。巻数毎に記録すると細かすぎる気がする。作品別のノートを作る運用ならよいかもしれない
  • 31_Tech
    • プログラミング言語、ツールの使い方、原則・格言など、IT関連の知識全般を収集している
    • 新しい概念を知った時にノートを作って概要だけ書いておき、必要になったときに詳細化するという運用をしている
  • 51_Songwriting
    • 歌詞とそのアイデアを記録している。
    • 元々、散らかったメモの内訳として多いのは歌詞のアイデアであった
    • 管理方法を見直したいが、なかなか手を付けられていない。うたを設計するためには歌詞を独立して扱うべきでないという問題意識があり、いずれは「歌詞を書く」という発想から抜け出したいと考えている
  • 93_Goi
    • 本やインターネットで新しく見かけた単語を収集している
    • 新しく知った言葉ばかりが並んでいる一覧を見るのは面白く、定期的に見返すので定着しやすい

余談:Obsidianの特徴

本稿の主旨から外れるが、Obsidianというツールの特徴についてもメモしておく。

  • Markdown形式
    • 個々のノートはMarkdown形式で記述する
    • アプリ内のエディタがあるのでMarkdownの文法を知らなくてもあまり問題ないが、ときどき外部からコピペした文字列の表示がおかしくなって「ソースモード」で確認したりすることはある。なので、簡単なMarkdownの文法とは付き合う必要がある
  • 階層構造
    • ノートは、フォルダとファイルからなる単純な階層構造である。ファイルを作る単位にも特に決まりはない。(それを決めることも含めて、各人に委ねられたPKM戦略ということになる)
    • 情報が「ただのテキストファイル」として記録される点が特徴的だ。OSのファイルエクスプローラーからもアクセスでき、管理をやめたくなったらいつでも別のストレージに移動することができる
  • タグ付け
    • ファイル毎にタグ付けを自由に行える
    • たとえば#2024年公開映画のようなタグを付けておいて後で一覧できるようにする
  • プラグイン
    • コミュニティプラグインがいろいろあり、PKM戦略に組み込むことができる。以下のものを主に使っている
      • テンプレートからノートを作成する TemplaterQuickAdd
      • 書籍を検索してノートを作成するBook Search
      • 複数ノートを検索してカスタムビューを作れる Dataview
  • 同期
    • PCとスマホを併用する場合、デバイス間同期について考える必要がある
    • 自分の場合は、iOSmacOSWindowsで同期を行う必要があり、調べた当時で異種OS間の同期で一番ストレスの無い方法が公式のサブスクであるObsidian Syncであったため、これを使っている。($8/月とそれなりの価格である。容量が少なくて$4のプランもある)
    • ほかの同期手段としてiCloudや、同期先を自分で用意できるならObsidian GitSelf-hosted LiveSync という手段がある(どれも試したことはない)

レムナント

最後に、PKMの導入による意識の変化について記しておく。それは忘却を肯定的に捉えられるようになったことだ。

Obsidianの保管庫(Vault)は、自分専用の外部記憶装置だ。その記憶の在り方はPKM戦略として自分の意志で選び取っている。忘れたくないものは記録すればよい。逆に記録しなかったことは忘れてもよい。自分でそのような選択をしたのだ。

また、忘れることは跡形もなく消えることではないと思うようになった。忘れられた記憶は、圧縮され、抽象化され、変質し、直接的な出来事や図像や音声としては想起されなくなる。いつか呼び覚まされることもあれば、二度と帰らないこともある。それでも微小な価値の断片としては存在し、経験的な判断や好き嫌いのフィーリングに影響を与えたりする。

忘れた後の「残りもの」。それを指すちょうどいい単語を知らないので、ここではレムナントと呼ぶことにする。

たとえば、口癖のように言う言葉がある。その裏には価値観がある。価値観の裏には、もう忘れてしまった人や、アートや、出来事のレムナントがある。人間のアイデンティティは、そうしたものの寄せ集めで出来ているのではないだろうか。

「常夜糖」と作詞論試論

はじめに

「常夜糖」という曲をアップロードした。 同人イベント「M3-2016春」で発表した『常夜糖』というCDに収録した曲だ。 この曲を題材に、作詞について考えていることを書いてみようと思う。

歌詞テキストはpiaproに貼ってある。

piapro(ピアプロ)|オンガク「常夜糖」

詞先と曲先

僕はいつも「詞先」で制作を行う。 詞先(しせん)いうのは曲先(きょくせん)の対義語で、歌詞を先に作ってからメロディをつけていく制作手法のことだ。 商業音楽にしろ同人音楽にしろ、作詞家と作曲家の分業が多いポピュラーミュージックでは、詞先ではなく曲先が主流となっている。

詞先と曲先のどちらが優れているということはないが、少なくとも歌詞の自由度とメロディの自由度はトレードオフの関係にある。 音楽としては自由で美しいメロディを作りたい一方で、言葉のもつリズムや音程とも整合性を取らなければならない。 また日本語にはピッチ・アクセント(高低アクセント)があるので、メロディの上下と言葉の音程の上下を極力合わせたいという制約が生じる。 曲先であればメロディとしての美しさが優先されるし、詞先であれば言葉のリズムや音程が優先される。 とはいえ一方が他方に完全に従属するわけではなく、メロディの主張と言葉の主張を擦り合わせて、互いに譲り合いながら作っていくのが現実的な作り方となる(分業だと、ここで歌詞の修正やメロディの修正のコストが高いので限界がある)。

ポピュラーミュージックで曲先が主流となっている理由は不明だが、想像するに、楽曲の訴求力のうち歌詞の占める割合が比較的小さいと考えられているためだろう。 文字情報がないと歌詞が聞き取れないことも多いので、当然といえば当然だ。

既存の詩に曲をつけるケースを除けば、詞先での制作はシンガーソングライター的な手法が多いと思う。すなわち、歌詞を作りながらメロディもある程度同時に作っていくパターンだ。この方法では、前述の「メロディと歌詞の譲り合い」を柔軟に行うことができる。 僕はこの「譲り合い」にメリットを感じて、シンガーソングライター的な方法をとっている。後述の「うた」の捉え方に基づくと、自然とそのような作り方に落ち着くのだ。

歌詞がうまれるまで

冒頭に紹介した「常夜糖」という曲に話を戻そう。 この曲はタイトルの「常夜糖」を最初に思いついた。 楽曲を作る際、タイトルを先に思いつくケースは比較的多い。 タイトル先行だと、「こういうタイトルの完成品があったとして、一体どういう作品だろう」と想像を広げることから制作が始まる。想像するのが好きな人には向いていると思う。

「常夜糖」は常夜灯と糖からなる造語だ。*1 糖といっても、グラニュー糖や栄養素としての糖ではなくて、最初から金平糖のことが念頭にあった。これは、テーマである「眠れない夜」が薬(たとえば睡眠薬)を連想させ、金平糖もまた薬を連想させるためだと思う。

作詞を始める前の事前準備として、金平糖について調べたり、金平糖を買ってきて眺めたり、食べたり、紅茶に溶かしたりしてみた。 そうして知ったのは、金平糖の特徴的な形状であるツノのようなものに決まった名称がないこと、そしてツノを形成するために数日~十数日の時間が掛かるということ、また金平糖は飴のようなお菓子と考えがちだが、歯ざわりがよいため舐めるより噛むほうが本来の食べ方であり、それに従うと一つでは物足りず連続していくつも食べたくなるということだった。 その知識は作詞の役に立ったか? 直接は登場していないかもしれないが、その体験がなければ、貴重な、洞窟の奥で静かに形作られる、依存性のある、といった常夜糖のイメージが生まれなかったのは間違いない。 なお、買ってきた金平糖はCDのジャケットにも使われた。

曲全体のテーマは(言葉で表すのも野暮だけれど)眠れない夜の痛みと、それに対する救いのようなものだ。その救いは神の救いのような正しいものではないが、一時的には非常に効果がある。 僕自身、眠れない夜はよく経験するし、そのときの思考や言葉の傾向もある程度掴んでいたので、作詞は比較的すんなり終わった。 やはり日常的に考えていることに関連していると作詞は進みやすいと思った。逆にいえば、馴染みの薄いテーマを作品にしようと思ったら、そのテーマを日常的な思考に浸透させる期間が必要ということだと思う。

強い言葉と弱い言葉

「夜泣きおじさん」という言葉が登場する。「おじさん」というのは組み合わせる言葉とのギャップによっておかしみを生みやすい言葉だ。おじさんの存在を仮定するだけで、想像を広げる大きな助けになる。実際に夜泣きおじさんの力は大きく、歌詞の一部は自分の中の夜泣きおじさんと対話するようにして生まれた。 今回の経験から、おじさんは「強い言葉」に分類しても良いと感じた。 これに味を占めておじさんを濫用しないよう心掛けねばならない。

「強い言葉」について書いておこう。 「世界」とか「愛」とか「私」とか、詩の語彙の中には強烈な引力を持つ言葉がある。強い言葉は詩の中でなくとも強いが、詩の中ではひときわ強い。 一方で強い言葉以外のなんでもない言葉は、弱い言葉だといえる。

強い言葉は、弱い言葉を簡単に食ってしまう。 たとえば「愛」という言葉がひとたび登場すれば、受け手は「あっ愛について言っているんだな」と簡単に『理解』なり『共感』してしまう。このショートカットはずるい。ずるい上に危うい。弱い言葉たちが繊細な意味の結びつきで表現しようとしていたことを一足で飛び越えてしまう。 こうなると、詩というメディアを通して送り手から受け手へメッセージが伝達されたように見えて、実際は受け手の内部の価値観が再生産されただけになってしまう。これでは詩が何も言っていないのと同じだ。

だから詩を書く者は強い言葉の使用に細心の注意を払わなければならない。 強い言葉の使用によく気をつけられた詩は、受け手に対して「何を言っているんだろう」という疑問の余地を残す。 この疑問の余地こそが、詩を単なる言葉の並び以上のものにするのだ。

「常夜糖」の歌詞の中では、「きみ」という二人称代名詞が特別強い言葉に分類される。 受け手が思い思いの「きみ」を想像してイメージのショートカットができてしまう、魔法の言葉だ。 今回の作詞に際しては「きみ」という語を使ってもよいものかよく考えた上で、十分な根拠を立てられたため使用に至った。根拠とは「この歌詞の登場人物は一人だけであり、窓ガラスに映った自分自身に『きみ』という二人称代名詞で呼びかけること自体に意味がある」というものだ。*2

前述の「強い言葉」「弱い言葉」の考えは初期の頃からあって、過去に作った「みみずワーズ」という曲は弱い言葉の視点を借りた曲だった。 奇しくも、「『きみ』の想像力から逃げる」という、やはり条件付きの「きみ」が登場する。

意味を編むということ

ここまで歌詞に対する考えを書いたが、歌詞をどのような意味で取るかは完全に受け手の自由だし、一度書かれたものは作者本人の手を離れる。だから上記の考えはある第三者の解釈にすぎない。

さらに元も子もないことを言えば、ほとんどの人は歌詞なんて聴かないし見ない。作り手は歌詞に過度な期待をしてはいけない。

それでもなお僕が歌詞にこだわる理由は、作ろうとしているものが「うた」であり、うたを作ることの本質が「意味を編む」ことだと考えているからだ。

うたの一部を虫眼鏡で見るように観察してみると、ある言葉がある音程と音価をもって発せられ、ある間隔が空き、別の言葉につながる。そして先ほどの言葉が再び現れたり、語義は異なるのに偶然同じ音である言葉が現れたりする(押韻とよばれる)。

もしある言葉が少し違うメロディで発せられたら、全く別の聞こえ方をするかもしれない。言葉だけでは伝わらない意味が、他の音と組み合わさることによって急に伝わるようになるかもしれない。 作者が意図する/しないにかかわらず、うたはこういった意味の結びつきにあふれている。

うたは、単に言葉と音を合体させたものではない。「意味を編む」とは、言葉や音といった構成要素を動かしながら、こうした意味の発生と消滅を見守ることだ。 (上記のように「言葉と音が複雑な意味の関係を形成したもの」として捉えるとき、僕は「歌」や「詩」や「唄」ではなく「うた」と表記することにしている)

おわりに

ある種の執着心をもちながら、一方で歌詞なんてなければいいと思う気持ちがある。 歌詞にこだわりのある人がいたら一緒に悩んでほしい。

  • 自分が音楽を聴くとき、いったいどれだけ真面目に歌詞を聞いていたか?
  • 苦しんで書いたとしても、誰にも何も伝わらないのではないか?
  • 歌詞に固執することが、音楽の豊かさを損ねているのではないか?

答えは出ないので、今日も頭の中の作詞おじさんと議論している。*3

*1:余談だが、YouTubeにアップロードするときにオマケ的につけている英題は「lamp of sugar」にした。こちらのほうが日本語にない「常夜"灯"」のニュアンスが残っている。(英語圏の人から見て違和感がないのかは知らない

*2:このアイデアを受けて、呼びかける側を初音ミクdark、呼びかけられる側を初音ミクsoftが歌っている

*3:話がオチないのでついまたおじさんに頼ってしまった

2014年をふりかえる

不始末と、個人サークルやめようラボの2014年の活動を振り返ります。短いです。

4月

8月

10月

12月

  • かれをばな氏による『緑の夢』のMVを投稿しました。
  • コミックマーケット87にサークルやめようラボとして参加し、はじめてのアルバム『チューニングダイアル』を頒布しました。(後日ショップ委託予定です)

まとめ

2014年の前半は音楽制作を休み気味で、写真を撮りはじめたりしていました。写真はTwitterにばらばら上げてただけなので、そのうちどこかにまとめたいと思います。

後半はCDを作ることにすべてのエネルギーを使ったので、他のことはほとんど出来ませんでした。しかしCDを作ることで発表できずに抱えていた曲やアイデアを吐き出せたので、大きな成果があったと感じています(これでいつでもやめられる)。

2015年はやめようラボの活動を広げる年にしたいです。