「常夜糖」と作詞論試論

はじめに

「常夜糖」という曲をアップロードした。 同人イベント「M3-2016春」で発表した『常夜糖』というCDに収録した曲だ。 この曲を題材に、作詞について考えていることを書いてみようと思う。

歌詞テキストはpiaproに貼ってある。

piapro(ピアプロ)|オンガク「常夜糖」

詞先と曲先

僕はいつも「詞先」で制作を行う。 詞先(しせん)いうのは曲先(きょくせん)の対義語で、歌詞を先に作ってからメロディをつけていく制作手法のことだ。 商業音楽にしろ同人音楽にしろ、作詞家と作曲家の分業が多いポピュラーミュージックでは、詞先ではなく曲先が主流となっている。

詞先と曲先のどちらが優れているということはないが、少なくとも歌詞の自由度とメロディの自由度はトレードオフの関係にある。 音楽としては自由で美しいメロディを作りたい一方で、言葉のもつリズムや音程とも整合性を取らなければならない。 また日本語にはピッチ・アクセント(高低アクセント)があるので、メロディの上下と言葉の音程の上下を極力合わせたいという制約が生じる。 曲先であればメロディとしての美しさが優先されるし、詞先であれば言葉のリズムや音程が優先される。 とはいえ一方が他方に完全に従属するわけではなく、メロディの主張と言葉の主張を擦り合わせて、互いに譲り合いながら作っていくのが現実的な作り方となる(分業だと、ここで歌詞の修正やメロディの修正のコストが高いので限界がある)。

ポピュラーミュージックで曲先が主流となっている理由は不明だが、想像するに、楽曲の訴求力のうち歌詞の占める割合が比較的小さいと考えられているためだろう。 文字情報がないと歌詞が聞き取れないことも多いので、当然といえば当然だ。

既存の詩に曲をつけるケースを除けば、詞先での制作はシンガーソングライター的な手法が多いと思う。すなわち、歌詞を作りながらメロディもある程度同時に作っていくパターンだ。この方法では、前述の「メロディと歌詞の譲り合い」を柔軟に行うことができる。 僕はこの「譲り合い」にメリットを感じて、シンガーソングライター的な方法をとっている。後述の「うた」の捉え方に基づくと、自然とそのような作り方に落ち着くのだ。

歌詞がうまれるまで

冒頭に紹介した「常夜糖」という曲に話を戻そう。 この曲はタイトルの「常夜糖」を最初に思いついた。 楽曲を作る際、タイトルを先に思いつくケースは比較的多い。 タイトル先行だと、「こういうタイトルの完成品があったとして、一体どういう作品だろう」と想像を広げることから制作が始まる。想像するのが好きな人には向いていると思う。

「常夜糖」は常夜灯と糖からなる造語だ。*1 糖といっても、グラニュー糖や栄養素としての糖ではなくて、最初から金平糖のことが念頭にあった。これは、テーマである「眠れない夜」が薬(たとえば睡眠薬)を連想させ、金平糖もまた薬を連想させるためだと思う。

作詞を始める前の事前準備として、金平糖について調べたり、金平糖を買ってきて眺めたり、食べたり、紅茶に溶かしたりしてみた。 そうして知ったのは、金平糖の特徴的な形状であるツノのようなものに決まった名称がないこと、そしてツノを形成するために数日~十数日の時間が掛かるということ、また金平糖は飴のようなお菓子と考えがちだが、歯ざわりがよいため舐めるより噛むほうが本来の食べ方であり、それに従うと一つでは物足りず連続していくつも食べたくなるということだった。 その知識は作詞の役に立ったか? 直接は登場していないかもしれないが、その体験がなければ、貴重な、洞窟の奥で静かに形作られる、依存性のある、といった常夜糖のイメージが生まれなかったのは間違いない。 なお、買ってきた金平糖はCDのジャケットにも使われた。

曲全体のテーマは(言葉で表すのも野暮だけれど)眠れない夜の痛みと、それに対する救いのようなものだ。その救いは神の救いのような正しいものではないが、一時的には非常に効果がある。 僕自身、眠れない夜はよく経験するし、そのときの思考や言葉の傾向もある程度掴んでいたので、作詞は比較的すんなり終わった。 やはり日常的に考えていることに関連していると作詞は進みやすいと思った。逆にいえば、馴染みの薄いテーマを作品にしようと思ったら、そのテーマを日常的な思考に浸透させる期間が必要ということだと思う。

強い言葉と弱い言葉

「夜泣きおじさん」という言葉が登場する。「おじさん」というのは組み合わせる言葉とのギャップによっておかしみを生みやすい言葉だ。おじさんの存在を仮定するだけで、想像を広げる大きな助けになる。実際に夜泣きおじさんの力は大きく、歌詞の一部は自分の中の夜泣きおじさんと対話するようにして生まれた。 今回の経験から、おじさんは「強い言葉」に分類しても良いと感じた。 これに味を占めておじさんを濫用しないよう心掛けねばならない。

「強い言葉」について書いておこう。 「世界」とか「愛」とか「私」とか、詩の語彙の中には強烈な引力を持つ言葉がある。強い言葉は詩の中でなくとも強いが、詩の中ではひときわ強い。 一方で強い言葉以外のなんでもない言葉は、弱い言葉だといえる。

強い言葉は、弱い言葉を簡単に食ってしまう。 たとえば「愛」という言葉がひとたび登場すれば、受け手は「あっ愛について言っているんだな」と簡単に『理解』なり『共感』してしまう。このショートカットはずるい。ずるい上に危うい。弱い言葉たちが繊細な意味の結びつきで表現しようとしていたことを一足で飛び越えてしまう。 こうなると、詩というメディアを通して送り手から受け手へメッセージが伝達されたように見えて、実際は受け手の内部の価値観が再生産されただけになってしまう。これでは詩が何も言っていないのと同じだ。

だから詩を書く者は強い言葉の使用に細心の注意を払わなければならない。 強い言葉の使用によく気をつけられた詩は、受け手に対して「何を言っているんだろう」という疑問の余地を残す。 この疑問の余地こそが、詩を単なる言葉の並び以上のものにするのだ。

「常夜糖」の歌詞の中では、「きみ」という二人称代名詞が特別強い言葉に分類される。 受け手が思い思いの「きみ」を想像してイメージのショートカットができてしまう、魔法の言葉だ。 今回の作詞に際しては「きみ」という語を使ってもよいものかよく考えた上で、十分な根拠を立てられたため使用に至った。根拠とは「この歌詞の登場人物は一人だけであり、窓ガラスに映った自分自身に『きみ』という二人称代名詞で呼びかけること自体に意味がある」というものだ。*2

前述の「強い言葉」「弱い言葉」の考えは初期の頃からあって、過去に作った「みみずワーズ」という曲は弱い言葉の視点を借りた曲だった。 奇しくも、「『きみ』の想像力から逃げる」という、やはり条件付きの「きみ」が登場する。

意味を編むということ

ここまで歌詞に対する考えを書いたが、歌詞をどのような意味で取るかは完全に受け手の自由だし、一度書かれたものは作者本人の手を離れる。だから上記の考えはある第三者の解釈にすぎない。

さらに元も子もないことを言えば、ほとんどの人は歌詞なんて聴かないし見ない。作り手は歌詞に過度な期待をしてはいけない。

それでもなお僕が歌詞にこだわる理由は、作ろうとしているものが「うた」であり、うたを作ることの本質が「意味を編む」ことだと考えているからだ。

うたの一部を虫眼鏡で見るように観察してみると、ある言葉がある音程と音価をもって発せられ、ある間隔が空き、別の言葉につながる。そして先ほどの言葉が再び現れたり、語義は異なるのに偶然同じ音である言葉が現れたりする(押韻とよばれる)。

もしある言葉が少し違うメロディで発せられたら、全く別の聞こえ方をするかもしれない。言葉だけでは伝わらない意味が、他の音と組み合わさることによって急に伝わるようになるかもしれない。 作者が意図する/しないにかかわらず、うたはこういった意味の結びつきにあふれている。

うたは、単に言葉と音を合体させたものではない。「意味を編む」とは、言葉や音といった構成要素を動かしながら、こうした意味の発生と消滅を見守ることだ。 (上記のように「言葉と音が複雑な意味の関係を形成したもの」として捉えるとき、僕は「歌」や「詩」や「唄」ではなく「うた」と表記することにしている)

おわりに

ある種の執着心をもちながら、一方で歌詞なんてなければいいと思う気持ちがある。 歌詞にこだわりのある人がいたら一緒に悩んでほしい。

  • 自分が音楽を聴くとき、いったいどれだけ真面目に歌詞を聞いていたか?
  • 苦しんで書いたとしても、誰にも何も伝わらないのではないか?
  • 歌詞に固執することが、音楽の豊かさを損ねているのではないか?

答えは出ないので、今日も頭の中の作詞おじさんと議論している。*3

*1:余談だが、YouTubeにアップロードするときにオマケ的につけている英題は「lamp of sugar」にした。こちらのほうが日本語にない「常夜"灯"」のニュアンスが残っている。(英語圏の人から見て違和感がないのかは知らない

*2:このアイデアを受けて、呼びかける側を初音ミクdark、呼びかけられる側を初音ミクsoftが歌っている

*3:話がオチないのでついまたおじさんに頼ってしまった